人の話は空の果て

仕事場の窓からおっきな鶴の巣が向かいの建物
の屋根の上に見える。毎年春の終わりにペアが
一組やって来て、オスメスの舞いを見せ、喉を
ケタケタ鳴らし、卵をかたくなに温め、生まれ
たヒナにせっせとエサを運び、自分らと体の大
きさが変わらないほどまでに育った甘えん坊た
ちに飛行を教え、秋の入口に旅立ってゆく。

数日前から巣はからっぽだ

ベルリンの夏は涼しかったが、8月最後の週は
暑さがぶり返した。30度を越えた。湖の畔に
は連日家族連れや恋人たちがやって来ては、ゴ
ロゴロした。ツツジや藤が狂わされて二度目の
花を付けた。でも鶴はそんな気候のいたずらに
これっぽっちも左右されず、一家そろってきっ
かり暦が変わるあたりで巣をあとにした。正確
には8月25日だったが、今年がうるう年だっ
たことを考慮したらやはりかなりの正確さだ。
ここ十年ほど観察しているが、旅立ちの日は一
週間とずれたことがない。
うるう年はそもそも、太陽系を地球が一周した
らそれを一年とし、一年を365日とした人間
の勝手の証し以外のなにもんでもない。完璧な
ようで不完全な人間そのものの象徴とも言える
かもしれない。


鶴は、首も足もやたら長いけれど、くちばしも
キスができないほど長いけど、それに目もよく
見たらぱっちりしているけれど、頭は小さい。
あんまり複雑な思考はしないんだろうな、と、
ちょっと失礼なことを思ってもいいぐらい、小
さい。だのにスイス人も作れないようなブレな
い時計を体内に持っている。人間が大きな重い
頭で一生懸命考えてようやく編み出した時の計
り方は、結局考えすぎってやつなのかな。
ていうか、時を計ること自体、どこかズレてい
るのかもしれない。